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孤立化の時代

Seibun Satow

Dec, 20. 2009

 

「連帯を求めて孤立を恐れず」。

谷川雁

 

 人間関係の点から今の日本社会を考える際のキーワードを見出すとしたら、それは「孤立化」になるだろう。2009年の大佛次郎論壇賞に、広井良典千葉大学教授の『コミュニティを問いなおす』が選ばれたのは象徴的である。実際、各種の学問分野で、現代にふさわしいコミュニティ、すなわち人々のつながりとはいかなるものであるのかが盛んに研究されている。

 松尾芭蕉の「秋深き隣は何をする人ぞ」をもじりながら、都会の集合住宅における隣人への無関心はかなり以前から新聞やテレビ等で論じられてきたが、昨今の孤立化はそれとは違う。孤立化が暴言や虐待、傷害、殺人、自殺、すなわち暴力につながっている。

 孤立化解消のために、かつての地域共同体を再建すべきだという意見もある。しかし、それには二つの問題点がある。第一に、そうした技術はコミュニティ内で受け継がれていくものだが、少子高齢化の現状ではそれが難しい。第二に、人・カネ・物・情報が世界的に流動するため、構造性に乏しく、絶え間なく変動する「マルチチュード」とも呼ばれる集いの形態において従来の技術がおいそれとは通用しない。

 そもそも懐古的な意見は、一時代前の習慣を自分の経験として語っているに過ぎない。むしろ、そこにとどまらず、中世や近世にまで遡行して、そうした制度を考察した上で、現代に参考にすべき点を提案する方が有意義である。地縁血縁が共通基盤の時代ではない。

 孤立化とは置かれている状況を自分だけで抱えこみ、人や社会と相互疎通が著しく希薄になっている状態である。この定義に基づいて考えると、社会で起きている諸々の現象が別々ではなく、孤立化の現われだということが明らかになる。

 ところで、新しい迷惑な人たちが登場すると、すかさず、作家や評論家、メディア・タレントが安易な名称をつける。「暴走老人」(藤原智美)や「モンスターペアレント」(向山洋一)などが好例である。しかし、これらの大半は議論の深まりをもたらさず、たんなる流行語に終わってしまう。

 一般に流通しやすいこうしたフレーズは、その概念定義が不明確である場合が少なくない。定義を明確にしなければ、何をもって解決とするのかがあいまいであるため、その問題を解消することは難しい。概念定義が困難であるなら、そこから派生する分類を精緻に行えば、同様の議論を展開できる。ところが、俗流学問では、定義が不明確でなおかつ分類も曖昧なまま、実例が羅列され、直観的な原因が示される。一般の読者は作者と同じ世界、その対象は自分とが違う世界に属するという二分法によって問題を認識する。しかも、提示される原因が直観で理解できる程度なで、すんなり受け入れられる。こうなると、そこから社会的な背景が後退し、個人的な事情が前面に出てくる。いまけに、定義が曖昧であるため、安直な拡大解釈・適用を招く。結局、俗流学問は床屋の政治談議を超えるものではなく、問題提起にもならず、無責任である。粗雑さを補完するような研究が出現しても、世間にそれがなかなか伝わりにくい。

 現代の学問は直観によって認識しにくい対象を扱う。よく実感と統計データの間にずれが生じる。その原因を探り当てるのが現代の学問の役割の一つである。ただ、それが世間にあまり伝わっていない。他方、俗流学問は実感を正当化して、それにそぐわないデータを無視ないし軽視する傾向がある。彼らは専門家と一般市民それぞれの孤立化につけこむデマコーグにすぎない。ビル群を上から見ても下からみても高さの違いはわかりにくい。水平から見なければならない。俗流学問に踊らされるよりも、専門家と一般市民との協同作業の方が建設的であろう。孤立化も同様である。孤立化を論じる際に、一般市民だけに焦点が当てられることも少なくない。けれども、専門家と一般市民の間の隔たりの解消もこの問題の改善につながる。

 孤立化をそうした意識から考察する際に、52009127日の『首都圏ネットワーク』(NHKテレビ)で紹介された東京との板橋区が始めた保育アドバイザー制度は興味深い。

 かねてより、板橋区では、しばしば保護者と保育士の間でいさかいが起き、保育園側がその対処に困り果てている。子供の言動をめぐって、保育士が発達段階等を踏まえて丁寧に説明しているのに、聞く耳を持たず、突然怒り出す親までいる。各方面で説明責任が問われているご時世でもあり、保育園としてもそれを十分に考慮し、慎重に言葉を選んで説明している。にもかかわらず、保護者に逆上されては、保育士にすれば理不尽としか思えない。

 板橋区はこうした状況に対応すべく保育アドバイザー制を設置している。元保育園の園長や保育の専門家がその任を担う。

 彼らが保育士にアドバイスするのは、保護者が求めているのは「説明」ではないという点である。今の親は育児に関して孤立している。そのため、追いこまれている気持ちにさえなっている。そのような被害者意識の人に説明すると、さらに追いつめられると恐れて、過剰な防衛機制が働いてしまう。保護者が必要としているは説明ではなく、「共感」である。自分の話を聞いて、それを受けとめて欲しいと願っている。中には言葉に乏しい親もいるだろう。だからこそ、共感する姿勢を感じたい。保育士はこうした保護者の気持ちを理解し、決して孤立化していないと相手に納得してもらう態度がとるべきである。

 加えて、この試みで見逃せないのは、保育士にも孤立化していないと感じてもらうことができる点である。保育士も孤立化し、追いこまれた精神状態に陥り、そんな自分への「共感」を欲している。保育士自身の孤立化が解消されていなければ、保護者に共感を持って接することは難しい。

 こうした共感に基づいて保護者と保育士が向かい合うとき、「信頼」が生まれる。そこからコミュニティ意識がお互いに生じる。しかし、そうするにも、孤立化がここまで進んでしまうと、個人で何とかできるはずもない。専門家が不可欠である。

 こう省察してくると、先に挙げた「暴走老人」や「モンスターペアレント」も孤立化社会の現われだということが明らかになる。人間の行動は複雑であるから、コミュニケーションをとって相手がどういう人であるかを推測し、その言動を予想する。しかし、孤立化してしまえば、その過程が失われ、短絡的にならざるを得ない。当然、社会にも、彼らの言動は横暴で、唐突に映る。

 孤立化は被害者意識を大きくさせ、人や社会への不信を招いてしまう。信頼感が希薄では、ちょっとしたことでも暴力が誘発される。自分を守るという理由だから、罪悪感もない。そんな孤立化の時代に必要なのは共感である。それは自分をわかってもらうために話すことからではなく、相手を理解しようと聞くことから始まる。さあ、まず相槌を打とう!

〈了〉

参考文献

小野田正利、『親はモンスターじゃない!』、学事出版、2008

広井良典、『コミュニティを問いなおす』、ちくま新書、2009

藤原智美、『暴走老人』、文春文庫、2009

 

佐藤清文、『現代化と文学』、2009

http://hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/modernize.html

 

 

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